第1章|日本企業のM&A急増──背景にあるマクロ環境
手元資金の膨張が呼び水に
日本企業のM&Aが加速している背景には、企業のバランスシートに滞留する潤沢なキャッシュの存在がある。2024年度末時点で上場企業の手元資金は114兆円と、過去最高を記録した。業績の堅調な推移や円安効果による外貨建て資産の評価増がこの数字を押し上げており、企業にとっては“使える資金”が増えた格好だ。
従来、日本企業は内部留保を手厚く積み上げる傾向があったが、近年ではその資金の滞留が資本効率の低下につながっているとの指摘も根強い。こうした状況を踏まえ、株主や市場からは現預金を活用した成長投資や再編を求める声が強まりつつある。その一つの手段として、M&Aが再び脚光を浴びているという構図だ。
統治改革が促す親子上場の見直し
市場構造の硬直性を象徴する存在とされてきた「親子上場」にも変化の兆しが見える。東京証券取引所は企業統治の透明性向上を掲げ、親会社と子会社の重複上場について合理的な説明や少数株主の保護策を求める姿勢を強めている。
この動きを受け、グループ内再編を進める大企業が相次いでいる。親会社によるTOB(株式公開買い付け)によって子会社を完全子会社化し、経営資源を集約する例が増加傾向にある。背景には、親子間の利益相反リスクや、政策保有株による資本効率の低下といった構造課題がある。上場会社の数が増え続けてきた日本市場では、こうした見直しが新陳代謝を促す契機になりつつある。
金融機関による資金供給と助言機能の強化
M&Aの加速を下支えしているのが、国内金融機関の積極的な関与だ。メガバンクを中心に、LBO(レバレッジド・バイアウト)ファイナンスの拡大や、M&Aアドバイザリー機能の強化が進んでいる。地銀においても、事業承継ニーズを見据えたファンド設立や外部専門家との連携などが活発化している。
また、金融庁がM&A支援の強化を方針として明示している点も見逃せない。特に中堅・中小企業の再編ニーズに対して、地域金融機関が「橋渡し役」を果たすべきとの政策的な要請が、実務面での動きを後押ししている。企業側としても、資金調達の選択肢が広がったことで、戦略的なM&Aを選択肢に入れやすい環境が整ってきたといえる。
海外成長市場への戦略的シフト
国内市場の縮小が続くなかで、日本企業は海外への成長投資に活路を見出している。少子高齢化の進行と人口減により、内需依存型のビジネスモデルでは持続的な成長が難しいとの認識が広がった。こうした状況を受けて、アジア太平洋や北米を中心に、海外市場でのM&Aが積極的に行われている。
単なる販路拡大にとどまらず、技術・人材・経営ノウハウといった無形資産の獲得を目的とする案件が目立つ。特にIT、インフラ、物流、ヘルスケアといった成長分野では、国内では得難い技術やスケールを持つ企業との統合が、日本企業の競争力強化に直結する可能性もある。
資本効率への視線と改革の起点
資本効率の観点では、日本企業は米欧企業に対してなお改善の余地を残している。ROE(自己資本利益率)は一桁台にとどまる企業が多く、営業キャッシュフロー比率も欧米の平均を下回っている。政策保有株や過剰な現預金保有といった、資本の“滞留”構造が背景にあるとの見方もある。
こうした課題に対しては、M&Aや事業再編を通じた企業構造の再設計が一つの打ち手となる。成長性を持続的に確保するには、単なるコスト削減では不十分であり、資本の活用効率を見直す必要がある。市場の評価軸が「内部留保の厚み」から「資本の活用力」へと移行している中、今後の動向が注目される。
第2章|グループ再編とカーブアウト──資本効率化への具体策
トヨタグループが示した資本改革の象徴
2025年上期、日本企業による再編の中でも最も注目されたのが、トヨタグループによる中核企業の非公開化。約4.7兆円という巨額のTOB(株式公開買い付け)は、単なる株式の取得にとどまらず、グループ内での経営資源再配置と資本効率改善の意図が色濃く反映された動きである。
この買収に至った背景には、株価純資産倍率(PBR)の低迷やアクティビストによる改革要求といった外部環境がある。株式の持ち合い構造を見直し、より機動的に意思決定ができる体制への移行が求められていた。非公開化によって、グループ再編を大胆に進める余地が広がったという見方もできる。
NTTグループ再統合が持つ戦略的意味
NTTによるIT子会社の完全子会社化も、2025年上期の象徴的な再編の一つとして注目を集めた。この再統合によって、経営判断のスピードと一体性が高まり、重複投資や親子間の調整コストを排除できる体制が整えられた。
特にNTTデータグループが保有する海外事業の知見や顧客基盤を、親会社であるNTTの中核戦略に直結させることが可能になった点は見逃せない。AIやクラウド基盤の拡張に不可欠なデータセンター事業への集中投資も含め、IOWN(次世代通信網)構想を軸に据えた成長戦略が、再編の中核にあるといえる。
ノンコア領域の売却──カーブアウト拡大の背景
グループ内の統合だけでなく、ノンコア領域の切り離し──いわゆる「カーブアウト」も活発化している。企業が全方位に事業を展開する時代から、選択と集中へと舵を切る中で、資本と経営資源の再配分が強く意識されるようになった。
その一例として、長年赤字を続けてきた医薬品事業を売却した大手企業の判断がある。この事業は研究開発負担が重く、利益貢献も限定的だった。これを外部に引き継ぐことで、成長が見込める本業──たとえば新たな製品領域や海外事業──に資源を集中させる戦略が可能となる。企業価値向上を実現する再編手段として、カーブアウトはますます重要性を帯びている。
アクティビストの“物言う力”が促す企業改革
企業の再編を促す背景には、アクティビスト株主の存在もある。かつてのような敵対的アプローチではなく、近年では建設的な対話を通じて企業価値の向上を狙うスタンスが主流となってきた。株主提案や役員選任への関与などを通じて、企業にとって最適な資本政策や事業戦略を求める流れが定着しつつある。
株式の持ち合い解消が進んだことで、こうした株主の提案が議決権に反映されやすい構造に変化してきたことも、影響を強めている要因の一つだ。再編を求める声が社外からも内側からも高まる中で、経営陣はより明確な意思と戦略を持って資源配分の意思決定を下す必要に迫られている。
M&Aを支える金融のインフラ
こうした再編が可能となる背景には、国内金融機関の資金供給体制の変化がある。大手銀行はLBOファイナンスの分野で主導的な役割を果たし、地銀においては事業承継支援ファンドを通じた地域企業再編に注力している。M&Aを通じた経済活性化は、もはや一部の大企業だけでなく、全国規模で広がる政策的な課題にもなりつつある。
特に、資金供給だけでなく、M&Aアドバイザリーとしての機能を併せ持つことで、企業側の意思決定を後押しする体制が整ってきた。金融面の後押しがあってこそ、大胆な資本構造の見直しが現実味を帯びてくる──その点は無視できない。
第3章|世界と日本のM&A市場──比較で見える潮流と展望
世界のM&A市場における日本の台頭
2025年上期の世界M&A市場では、総額で約1.98兆ドルと前年同期比で約3割の増加となった。この伸びを牽引したのは、日本およびアジア太平洋地域である。とりわけ、日本企業によるM&A金額は3.6倍に急増し、世界シェアで34年ぶりに1割を超える水準に到達した。
一方、米国では伸び率が1桁台にとどまり、欧州ではほぼ横ばいで推移した。市場全体の活況にもかかわらず、地域ごとの温度差が際立った半年間となったことは、今後の戦略立案にあたって無視できないポイントといえる。
相互関税政策が及ぼす慎重姿勢
米国におけるM&Aの伸び悩みには、トランプ政権の相互関税政策が影響している。特に2025年4月に発表された関税強化の方針は、企業の調達コストや利益計画に不透明感をもたらし、M&A実行の判断を先送りする動きが一時的に広がった。
企業が買収資金をファンド等の外部調達に頼る傾向が強い米国では、金融市場の動揺が直接的にM&A意欲を鈍らせる場面がある。ただし、ソフトウエアやヘルスケアといった分野では再び取引が動き始めており、分野ごとの温度差も生じている。
日本企業が学んだ1990〜2000年代の教訓
過去を振り返ると、1990年代から2000年代にかけて、日本企業は大型の海外M&Aでさまざまな経験を積んだ。買収金額の高さや、PMI(買収後の統合)計画の不備が原因で、業績悪化や減損処理を余儀なくされた事例も少なくなかった。
こうした教訓から、近年のM&A戦略では、事前のシナジー検証や統合スキームの具体化、現地経営陣との協働体制構築などが重視されている。M&Aは単なる資本投下ではなく、「統合後に何を成すか」が企業価値向上のカギを握るという認識が定着しつつある。
上場企業数の減少とPEマネーの存在感
欧米では上場企業数の減少が顕著だ。たとえば米国では、2000年からの20年間で上場企業数が約4割減少しており、欧州も同様の傾向を示している。上場維持コストの上昇や未公開市場の資金調達手段の充実化が背景にある。
この流れはM&A市場の構造に変化をもたらしている。PE(プライベート・エクイティ)ファンドなどによる非公開企業への投資が活発化し、買収・再編の厚みを支えている一方、対象企業の競争入札が過熱する場面も増えてきた。SaaS業界などでは、上場よりもM&Aによる成長を重視する戦略が一般化している。
日本企業が世界シェアを維持・拡大するための条件
今後も日本企業がグローバルM&A市場で存在感を保つには、以下の4点が鍵を握る。
- PMI人材の育成
統合フェーズでの価値創出に不可欠な専門人材の確保と社内体制整備が求められる。 - 迅速な意思決定体制の構築
グローバル競争のスピードに対応するには、従来の階層的な稟議プロセスの見直しが不可避となる。 - 法制度・税制への対応力の強化
海外M&Aでは、対象国の競争法・税法への対応が重要であり、社内外の専門知見の活用が鍵を握る。 - 資本効率を意識した資源配分
PBRやROEといった資本効率指標を意識し、余剰資本を眠らせずに成長投資に振り向ける姿勢が市場から求められている。
これらの基盤を整えた上で、企業は自社にとって戦略的な意義のあるM&Aを計画的に実行していくことが期待される。事業ポートフォリオの再設計と海外成長機会の取り込みが両輪となる中、再編とM&Aを融合させた成長戦略が、今後の企業価値向上の中核を担う可能性がある。
免責事項
本記事は、公開時点で入手可能な情報に基づいて作成されたものであり、特定の企業や金融商品への投資助言を行うものではありません。
実際の投資・経営判断にあたっては、専門家への相談および最新情報の確認を推奨いたします。
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