第1章 円安加速の直接要因:相互関税ショックと市場心理
相互関税政策と25%新税率の導入経緯
2025年、米国が導入した「相互関税」政策が円相場に大きな影響を及ぼしています。この政策は、貿易相手国が米国製品に課す関税と同等の税率を米国側も課すというもので、貿易赤字の是正や国内産業の保護を主な目的としています。
4月2日には、すべての国に対して一律10%の基本税率を適用する方針が示され、日本にはこれに加えて14%の上乗せが行われ、合計24%の関税が適用されることとなりました。その後、交渉の進展が見られない中、7月7日にトランプ大統領は新たな書簡を公表し、日本と韓国からの輸入品に対する税率を25%に引き上げ、8月1日から発動する意向を表明しました。通告のタイミングや引き上げ幅には、相手国に譲歩を迫る狙いもあったとみられています。
円安が主要通貨全体で進行するまでのプロセス
2024年以降、円は主要通貨に対して継続的に売られる傾向を強めてきました。特に原油価格の上昇や中東情勢の不安定化により、貿易収支の悪化懸念が高まった局面では、対スイスフラン・対ユーロで顕著に円安が進みました。
10月には首相が早期の利上げに慎重な姿勢を示したことを受け、為替市場では円売りの動きが一段と加速。2025年に入ると、6月23日の東京市場で1ドル=147円台を付けるなど、円安傾向が再燃します。7月には関税交渉の難航が表面化し、市場のリスク回避姿勢が一層強まった結果、対スイスフランでは185円台の過去最安値水準、対ユーロでは172円台と、いずれも歴史的な円安水準に達しました。
G10通貨で日本のみが対象となった背景
米国の新税率「第1弾」の対象は、日本や韓国を含む14か国でしたが、G10通貨を採用している国では日本のみが含まれていました。この背景には、米国が日本経済への依存度や構造的な影響度を特に高く評価した事情があると考えられます。
具体的には、日本経済が関税ショックにより他国以上に下押しされるとの見通し、そして日銀の利上げ観測が急速に後退したことが重なったことで、円が市場から相対的に弱い通貨と認識されたとみられます。一方で、同様に関税の対象とされたカナダドルは、一時的な下落を見せたものの、すぐに値を戻しており、円売りがより深刻な構図を呈しています。
円売り圧力と投機筋の動向
米国商品先物取引委員会(CFTC)のデータによれば、2025年7月時点で投機筋による円の買い越し枚数は11万6000枚にまで減少しています。これは4月末と比較して35%の縮小であり、円に対する弱気な姿勢が明確になっています。
あわせて、翌日物金利スワップ(OIS)市場でも、年内の利上げ織り込み確率が6月末の60%から、7月8日には40%前後まで低下しました。このような動向からは、投機筋が円買いポジションを手放し、再び円売りへ傾斜している可能性が示唆されます。
為替市場で広がる「関税×円安」連鎖の構造
相互関税の影響は、単なる輸出入価格への影響にとどまりません。高関税が経済全体のコスト構造を押し上げ、日本経済の減速懸念を強めたことにより、円は売られやすい環境に置かれています。
このタイミングで原油高による貿易赤字の拡大や「有事のドル買い」が重なり、加えて利上げ観測の剥落が明らかになると、円安への流れが一層加速しました。市場では、このような複合的な要因が絡むことで、構造的な円安圧力が形成されているとの見方が広がっています。
第2章 円安の波及:実体経済・企業・家計への影響
円安と関税が日本の実質GDPに与える下振れ影響
2025年に発動予定の25%の相互関税は、日本経済に対してマイナスの成長圧力を加えています。複数の民間調査機関の試算によると、関税水準が10%であれば実質GDPを0.47%押し下げるとされ、これが25%に引き上げられた場合、押し下げ幅は0.85%に拡大する見込みです。
さらに、分野別に税率が上乗せされると影響はより広がると考えられ、大和総研の分析では自動車や鉄鋼といった産業別の追加関税が加わると、最大で0.9%程度まで成長率を押し下げるとされています。こうした数字は、円安と関税政策の組み合わせが、想定以上に国内景気を冷え込ませるリスクを示唆しています。
輸入インフレとコメ価格高騰:農家と消費者への影響
円安は、肥料や飼料といった農業用資材の輸入価格を押し上げており、その影響はコメの生産コストにも及んでいます。さらに、インバウンド需要の増加や市場での投機的な動きが重なり、コメ価格は2025年に入って急騰しました。
価格高騰に対しては、政府による備蓄米の放出などの対応が取られましたが、需給のひっ迫感は解消されず、有力産地では2025年産米の買い取り価格が前年より3〜4割高く設定されました。短期的には農家の収入増につながる一方、コストの上昇と価格変動の不安定さが続けば、中長期的な担い手不足や生産意欲の低下につながる可能性も懸念されています。
輸出企業にとっての円安メリット
円安の進行は、輸出関連企業にとっては収益の押し上げ要因となり得ます。為替が円安に振れることで、ドル建てやユーロ建ての輸出収益が円換算で増加するため、企業の業績に好影響をもたらします。
実際、為替の動きによって営業利益を数十億円単位で上乗せした企業も見られ、特に製造業や電機、自動車などのセクターでは明確な恩恵を受ける構図です。また、海外現地法人の利益も円換算で拡大しやすく、グローバル展開する企業にとっては追い風となる局面が続いています。
さらに、訪日外国人による消費拡大が進むなか、観光や小売といったインバウンド関連産業にもプラス材料として働いています。
内需・輸入企業が直面する円安のデメリット
一方で、円安は輸入コストを増大させるため、特に原材料やエネルギー価格に依存する業種では大きな打撃となります。食品、日用品、住宅設備など幅広い分野で仕入価格の上昇が続いており、価格転嫁が難しい業態では利益率の悪化につながる事例も増えています。
輸入採算の悪化が企業の資金繰りに影響するケースもあり、中小規模の企業ほど対応が難しい状況が見受けられます。また、急激な為替変動は中長期の経営計画を立てにくくさせる要因ともなっており、為替リスクへの備えが一層重要視されています。
輸入物価と実質賃金のギャップが家計に与える負担
円安とそれに伴う輸入物価の上昇は、消費者の生活にもじわじわと影響を及ぼしています。物価全体が上昇する中で、賃金の上昇が追いつかなければ、実質賃金が低下し、可処分所得の減少に直結します。
家計においては、節約志向が強まり、衣料品や家庭用品など非耐久財の購入を控える傾向が強まるとされます。一方で、飲食や宿泊などのサービス消費については堅調な動きも見られるものの、所得環境によって二極化が進みやすい局面といえるでしょう。
中小企業に勤める層への影響も軽視できません。賃上げの余力が乏しい企業が多いなか、円安はコスト増と賃上げ困難の両面から、経済の好循環を妨げる要因となり得ます。
第3章 今後のシナリオと注視ポイント:148円ラインの現実味
米CPIの動向が円相場に与える影響
今後の円相場を占ううえで、米国の消費者物価指数(CPI)の動向は引き続き重要な指標となります。CPIが市場予想を上回る場合には、インフレ再加速への懸念が強まり、米連邦準備理事会(FRB)による利下げ観測が後退する可能性があります。この場合、日米の金利差が拡大するとの見方が広がり、円売り・ドル買いが優勢となる傾向があります。
一方、CPIが市場予想を下回れば、米国の金融緩和姿勢が意識され、ドル安・円高への反転材料となることも考えられます。市場は、単に一時的な変動ではなく、今後の政策スタンスの方向性を占う材料としてCPIを注視しており、為替の反応も敏感になりやすい局面といえるでしょう。
日銀の早期利上げ観測が後退する要因と市場の反応
日銀の金融政策スタンスも、円相場に大きな影響を及ぼしています。2025年6月以降、日銀は早期の利上げに対して慎重な姿勢を示しており、OIS(翌日物金利スワップ)市場では年内の利上げ織り込み確率が60%から40%へと低下しました。
この背景には、国内の景気減速懸念や政権側の政治的配慮があると見られています。加えて、米国の金融政策が想定よりタカ派寄りとなる場合、日銀としては無理に金利を引き上げる必要がないとの判断が働きやすくなります。こうした見方が広がることで、円売りの地合いが維持される一因となっています。
参院選の結果と財政運営への懸念
7月20日の参院選の結果は、円相場に対して間接的な影響を及ぼす可能性があります。仮に与党が議席を減らし、財政拡張的な政策を掲げる野党勢力が議席を伸ばした場合、市場では財政規律の緩みを警戒する声が高まることが予想されます。そのような環境下では、円売り圧力が続きやすくなるとの見方も出ています。
一方、与党が過半数を維持すれば、一定の政治的安定感が市場に評価され、不透明感がやや後退する可能性もあります。為替市場は、政策の方向性のみならず、政権運営の安定性にも敏感であり、選挙結果を受けた動向が注目されるところです。
円相場が148円に達するシナリオ
現時点で注目されているのが、円相場が1ドル=148円に達するかどうかという点です。仮に6月の米CPIが市場予想を大幅に上回るような結果となれば、米国の利下げ期待が後退し、ドル高・円安が進行する可能性が指摘されています。
さらに、参院選の結果を受けて財政規律への懸念が高まったり、日銀が利上げを見送る姿勢を鮮明にした場合、為替市場では円売りが一段と強まることが考えられます。こうした複数の要因が重なれば、円が148円程度まで下落する局面も十分に想定されます。
また、中東情勢の悪化によって原油価格が高騰し、日本の貿易赤字が拡大するとの見方が強まれば、実需面からも円安を後押しする可能性がある点にも注意が必要です。
投資家・企業が注視すべき短期チェックリスト
今後の為替動向を見極めるうえで、次のようなイベントが短期的な注目ポイントとなります:
- 米国の主要経済指標の発表動向(CPI、雇用統計、小売売上高など)
- 日銀の金融政策決定会合と総裁発言の内容
- 参院選後の財政方針と政権運営の方向性
- 原油価格とそれに伴う日本の貿易収支の推移
- 為替介入の有無、または観測報道の影響
これら複数のファクターが同時に動く場面では、市場のボラティリティが高まりやすく、急激な為替変動が発生する可能性があります。企業・投資家にとっては、あらかじめ注視すべき指標を整理し、リスク管理を徹底することが重要な局面といえます。
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