第1章|「2020年解禁」から5年──インド宇宙スタートアップ爆発の理由
政策転換がもたらした転機
インド政府が2020年に宇宙分野への民間参入を正式に認めたことで、宇宙産業の構造が大きく変わりました。この政策変更は、いわゆるSpacecom Policy 2020の一環として位置づけられており、これにより宇宙関連ビジネスは官主導から官民協調型へと大きく舵を切ることになりました。
この動きは、従来からの宇宙研究機関によるプロジェクト実施の枠を超えて、民間企業が独自に衛星やロケットの設計・製造・打ち上げまでを担える環境を整備するものであり、業界全体の参入障壁を下げる契機となりました。政策面でのこうした転換が、スタートアップ創出の土壌として機能し始めたのです。
わずか5年で“世界2位”に躍進
この政策解禁からわずか数年の間に、インドにおける宇宙関連のスタートアップ企業は急増しています。2025年5月時点において、宇宙ビジネスに関連する民間企業は172社を数えるに至り、その数はアメリカに次いで世界第2位の規模となっています。
この企業数の伸びは、単なる数字上の増加というより、宇宙産業が一部の大手企業や公的機関だけの領域ではなく、多様な事業者に開かれた分野となりつつあることを示しています。スタートアップの多くは、従来型の重厚長大な開発体制とは異なり、短期間での製品化や、効率的な打ち上げ体制の構築を志向しており、業界全体の競争原理を強く刺激しているように見受けられます。
また、こうした急増の背景には、既存の宇宙機関における技術者・研究者の民間移行も一定の役割を果たしているようです。特に、宇宙研究分野で経験を積んだ人材が起業という形で市場に出てくるケースが増えており、それが新たな技術開発や打ち上げ体制の構築に直結しています。
技術開発スピードの象徴
インドの宇宙スタートアップが注目される背景には、その開発スピードの高さも挙げられます。たとえば、2023年に創業したある企業は、創業からわずか9カ月という短期間で海洋監視用の実証衛星の打ち上げを成功させました。こうしたスピード感のある開発は、従来型の宇宙開発では考えにくいものであり、インドのスタートアップが柔軟な技術体制を確立しつつあることの証左ともいえるでしょう。
このような開発スピードが実現している背景には、公的機関で長年蓄積されてきた基礎技術や、効率的な小型衛星の設計ノウハウが民間に転用されつつあるという事情があります。特に緊急対応や短期用途に適した衛星を迅速に製造・投入できる能力は、国家の安全保障やインフラ整備の観点からも注目される分野となりつつあります。
また、インドにおいては、従来の手法にとらわれず、成果重視で新しい手段を採用する傾向が強いとされており、技術的に実現可能なものであれば柔軟に設計思想を転換できる文化も存在します。この点は、変化に迅速に対応できるスタートアップにとっては非常に好都合な土壌と言えるかもしれません。
資金調達の動きにも表れる変化
政策の後押しや企業数の増加に加えて、民間宇宙ビジネスの勢いは資金調達の実績にも現れています。調査によれば、2025年1月から5月の期間において、インドの宇宙関連企業による資金調達の総額は8.8百万ドルに達しています。
この金額は一見すると限定的に見えるかもしれませんが、注目すべきはその調達件数と成長ペースです。多くの企業が初期段階から積極的に外部資金を取り込み、技術開発や設備投資に活用しており、資金調達が成長ドライバーとして機能している様子がうかがえます。
さらに、インドにおいては政府による宇宙産業の支援が継続的に行われているほか、国際的な投資家の関心も高まりつつあります。特に海外からの投資に対して柔軟な制度設計が進んでいることもあり、将来的にはより大規模な資金流入が見込まれる局面に差しかかっているとみる向きもあります。
このように、インドの宇宙スタートアップ業界は、制度、技術、人材、資金の各面で一定の成熟を見せつつあり、外部環境の変化にも対応しながら持続的な拡大フェーズに入った段階と位置付けられるかもしれません。
第2章|官×民エコシステムの核心──ISROの底力とベンガルール集積
国家宇宙機関の層の厚み
インドの宇宙産業の拡大を語る上で、長年にわたり基盤を支えてきた国家宇宙機関の存在は欠かせません。インド宇宙研究機関(ISRO)は、公的機関として技術の蓄積と人材育成の中核を担ってきました。2022年時点でISROの職員数は19,247名に達しており、これは同様の役割を担う他国の機関と比較しても非常に大きな規模です。
たとえば、米国のNASAよりも職員数では上回っており、日本のJAXAとは桁違いの規模感です。このような層の厚さは、日常的な衛星運用やロケット開発だけでなく、民間との連携や技術移転の素地としても大きな強みとなっています。加えて、ISROの全体の人員のうち、技術系職員が約75%を占めているという点も特筆に値します。これは、現場の技術実装力が高く、理論研究と実務展開の両面で高いレベルを維持していることを意味します。
このように、組織としての規模と機能のバランスが整っていることが、後述する民間企業の成長にも直接的に影響を与えているといえるでしょう。
資本環境の変化とFDI自由化
インドの宇宙産業にとって、技術力に加えて資本調達環境の整備も極めて重要な要素といえます。そうした意味でも、2024年に実施された海外直接投資(FDI)に関する制度改正は、ひとつの節目となりました。
このFDI自由化の方針によって、特に衛星の製造やその部品に関する分野において、100%の外国資本による出資が自動承認の対象となりました。従来は、一定の出資比率を超える場合には政府の承認が必要とされていましたが、今回の規制緩和により、外資系企業にとっては参入の障壁が大きく下がったことになります。
この制度改正は、単に外資の流入を促進するだけでなく、国内企業が外部パートナーと連携しやすくなるという副次的な効果ももたらします。たとえば、研究開発や製造の現場において、海外の技術やノウハウを取り込む動きが活発になれば、技術的な底上げが期待できる局面もあるでしょう。
また、資本の流動性が高まることで、スタートアップを含む民間企業が将来的な上場や大型プロジェクトへの参加を見据えた経営戦略を描きやすくなるという点でも、長期的なプラス材料といえます。民間主体の活動が拡大するなかで、こうした制度面での後押しは極めて重要な役割を果たしていると考えられます。
ベンガルールに形成された集積地
技術と資本の両面が整いつつある中で、インドの宇宙産業におけるもう一つの注目点が、特定地域への集積という観点です。中でも、南部の都市ベンガルールはその象徴的存在とされています。
この地域には、ISROの本部が設置されているほか、国内最高峰の理工系研究機関であるインド理科大学院(IISc)もキャンパスを構えています。こうした拠点の存在が、同地域における宇宙関連企業や研究者の集中を促す土壌となっています。
このような集積構造がもたらすメリットは、単に地理的な近接性にとどまりません。たとえば、宇宙関連のスタートアップにとっては、高度な専門知識を持つ研究者に日常的にアクセスできる環境が整っており、開発課題の早期解決や技術検証の効率化といった実務上の効果が見込まれます。
実際、ベンガルール周辺では、研究者がスタートアップの技術アドバイザーを務めたり、育成プログラムにメンターとして参画する取り組みが進んでいます。こうした体制は、民間企業にとっては心強い支援となり、技術リスクの管理や事業の安定運営にもつながります。
また、集積地としてのベンガルールの特性は、人材の移動のしやすさや雇用の流動性にも影響を与えており、宇宙関連のスキルを持つ人材が柔軟に企業間を移動できる環境が形成されつつあることも、産業としての持続的成長を支える要素の一つといえそうです。
第3章|「民間連携がフロンティア」──世界宇宙ビジネスの潮流とインドの伸びしろ
拡大する宇宙ビジネスの市場規模
近年、宇宙産業は従来の国家主導型から、より開かれたビジネス領域へと変化しつつあります。その象徴とも言えるのが、市場規模の急速な拡大です。
調査によれば、2024年における世界の宇宙産業の規模はおよそ5,960億ドルとされています。そして、2033年にはその規模が約9,440億ドルへと拡大する見通しとなっています。この推移は、約10年間で1.6倍という成長を示しており、今後も宇宙ビジネスが各国経済における重要な柱となっていく可能性を示唆しています。
このような成長には、通信衛星、観測衛星、宇宙インフラ関連サービスなど多様な要素が関わっており、民間企業による技術革新がそれらを支える構図が徐々に強まっています。従来は国家予算を前提とした長期プロジェクトが主流でしたが、今では中小規模の事業体によっても市場参入が現実的となり、競争環境が大きく変わりつつあります。
民間連携が示す次なる展開
こうした中、インドの宇宙ビジネスに関しても、政府関係者から明確なメッセージが出されています。インド宇宙ビジネス許認可機関であるIN-SPACeのパワン・ゴエンカ会長は、「今後の宇宙開発では、民間企業の連携がフロンティアになる」との見解を示しています。
従来、宇宙開発といえば巨額の国家予算を投入するプロジェクトという印象が強かったものの、現在では衛星の打ち上げコストが下がり、開発サイクルも短縮されてきています。こうした環境の変化により、複数の民間企業が連携し、それぞれの専門性を生かす形でプロジェクトを推進するケースが増えていると見られています。
このような民間連携の広がりは、単に開発体制の柔軟性を高めるにとどまらず、投資先としての多様性やリスク分散といった点でも市場参加者にとって魅力的な要素となっています。インドにおいても、既にスタートアップと既存企業の協業が進みつつあり、今後さらに複合的な連携体制が進展する可能性が考えられます。
国家目標としての成長戦略
こうした状況を踏まえ、インド政府は2033年を目標とする中長期の宇宙経済戦略を掲げています。その中核には、国内宇宙産業の市場規模を440億ドル規模まで拡大させるという目標が置かれています。
この数値は、現在のインドにおける宇宙ビジネスの現状からみても、相当な成長を前提としたものとなっています。その背景には、先述のようなスタートアップの台頭、制度面での支援強化、そして人材・技術インフラの厚みがあるといえるでしょう。
また、インドが国際的な経済安全保障の枠組みにおいて、特定の国と分断されていないという事実も、市場拡大を下支えする要素のひとつと考えられます。こうした中立的な立場が、多国間の技術提携や海外投資の呼び込みにおいて、一定の信頼感を生んでいる面もあるかもしれません。
総じて、インドの宇宙産業は今後も拡大基調を維持し、世界的な市場における存在感をさらに高めていく可能性があります。特に民間主導の体制が整備されつつある現状は、長期的視点で見た際の競争力強化につながっていくと考えられます。
コメント